<その2>先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし
本を読んで分かることは本を読めばよい。面白い話が聞きたければ落語を聞けばよい。研修とは知識を授けるだけでなく、受講者のマインドに火をつけ受講者をその気にさせること。
習ったことをこれからの仕事に生かしてくれなければ研修の目的は達成できない。一般教養を身に着けることは研修の目的ではない。研修は受講者の行動変容を促すことができなければならない。
そのため大学の先生のように淡々と講義をすすめればよいというものではない。だからといって芸能人のように派手な格好をする必要もない。長髪をオールバックにしてみたり、パイプをくゆらせたり、年甲斐もなく派手なシャツを着る必要はない。なのに同業者の中には勘違いしている者が結構いる。
講師業を始めると先生と呼ばれ、自分も何か偉くなったように勘違いしてしまう人もいる。しかし「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」と言われるように、舞い上がってしまってはいけない。自分は講師という立場上人前で話すのであり、受講者は仕事の一環で研修を受けているだけ。だから自分は自分であって自分以上ではないが自分以下でもない。
それを実力以上に見せようとしても、すぐにメッキははがれる。高級スーツに身を包み、鷹揚な態度をとっても実力の程はすぐわかる。といって必要以上に卑屈な態度をとることもない。受講者に媚びたり、ご機嫌をとらなくてもよい。講師はありのままで勝負をすればよい。それを実力以上に見せようとするから肩が凝る。
そういう講師に限って研修が終わると、疲れた〜、疲れた〜を連発する。そんな無理をするから疲れるのだ。ありのままの実力で受講者に精一杯対応する。そしてその結果をどう評価するかは受講者だ。よかった、為になった、勉強になったと言われれば素直に喜ぶ。自分の至らぬ点を指摘されれば、素直に認めて自分の要改善ポイントとし、自己の成長につなげる。
厳しい評価をされると腹を立てる講師がいる。確かに受講者に問題があることもあるので、言い訳したくなる気持ちは分かる。でも、自分の講義をそのように見られていたのかと、まず素直に受け入れることが大切である。世の中には自分よりも上手な講師はたくさんいる。自分がこの世で最高の講師だと言い切れる人以外は、まだまだ成長の余地をもっているということだ。
年配の講師になればなるほど、周囲も面と向かって欠点を指摘しづらくなる。だから翌年はだまって講師を代えたりする。講師にしてみれば研修は結構盛り上がっていたし、リピートがこないのが不思議でならない。でも何が悪かったのか言ってくれない限り、自分の欠点は永久にわからない。だから同じようなことがまた続く。
このように考えてくると、耳障りなことでも言ってくれるだけありがたいということだ。ところが普段、先生、先生などと呼ばれていると、なんとなく偉くなったような気分になり、ちょっと耳障りなことを言われると腹を立てるようになる。
いくらお世辞やお追従を言われても、講師としての成長にはつながらない。むしろ批判的な意見や、欠点の指摘にこそ、さらなる成長の種が潜んでいる。今や激変の時代、世の中がもの凄いスピードで変化していく時代。だからこそ講師だってどんどん変化していかなければならない。
私は偉いんだ、もうこれでいいだろう、などと思うようになったらもう講師としては終わっているということだ。
だから研修講師は「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」を座右の銘とすべきだ。
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次回は、研修講師になりたいと思われているあなたに、研修講師の実態をお話しする「それでも研修講師になりたい?」です。
© 2014 Toshiharu Amemiya |